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2011年1月

2011年1月11日 (火)

現代詩時評・展望「アンソロジーから見えるもの」コールサック68号より

現代詩時評・展望
アンソロジーから見えるもの
  ~個であると同時に人類である~
                   佐相 憲一

 
  はじめに 

 今年二〇一〇年の日本の詩界の目立った動きの一つに、各種アンソロジー詩集刊行があった。毎年、どこかしらのアンソロジー詩集が出るが、今年は特別に盛んであったので、この機会にアンソロジーというものに焦点を当てて、それぞれの特長も述べてみたい。

  アンソロジーはなぜあるのか

 そもそも論からはじめよう。アンソロジー詩集はなぜあるのか。アンソロジー詩集の意義を考えてみたい。
 
①地域性で結びついた各地の詩団体なら、会員諸氏が肝心の詩作品でつどうアンソロジーは、その団体の存在そのものの生きたしるしであり、根幹事業でもあろう。その土地にどんな書き手がいて、どんな作品を書いているのか。日頃バラバラのところ(詩誌)で書いている個性が並ぶアンソロジーは、読んでいてなかなか新鮮である。そして、「~県はいい詩人が多いなあ」「~地方は気合が入っているなあ」などとうれしい発見を共にするのだ。参加している詩人にしても、本全体から浮かび上がってくる風土なども再認識して居住地への考察をあらたにするかもしれない。

②テーマで編まれたアンソロジー詩集の場合だが、これはもう、その企画がなかったらそのテーマについてまとまって考察することもなかっただろうという切実さをもつ。もちろん、個々の書き手はそのようなテーマで書いてきただろう。しかし、社会の中でそのテーマを集中的に浮き彫りにするには、アンソロジーが最適だ。さまざまな詩人があの手この手で詩の技術を駆使してつどうのだから、同じテーマでも社会科学や自然科学系の本よりも、より人間味のある血の通った本になるのではないか。

③全国詩団体のアンソロジーになると、これは公的な文学記録として国の文化財的な要素が強くなる。日本の政治や流通システムは文化に冷たく、特に詩には虐待あるいは無視に近い不当な態度をとっているが、本来は現代の日本の詩人たちの詩の刻印として後世への歴史的な価値を有するものなのである。あらゆる傾向・流派の、あらゆる地方からの作品が公平に一堂に会する博覧会的アンソロジーは文化論的な民主主義の成熟度も反映していると言えるだろう。

④いずれのタイプのアンソロジーにしても、個人詩集とは違った発見がある。
 野球にたとえるなら、イチロー選手だけを見ていると、常人のレベルを超えたパワーがあり、スピードがあり、それはそれで楽しませてくれるが、たとえばカブレラ選手と並べてみることによって、イチロー選手にはスマートで器用な対応能力とバランス感覚を特に感じるし、カブレラ選手には豪快な長打の魅力をより感じるだろう。もちろん、二人とも日本のパ・リーグや海外で共にハイ・アベレージを残してきた好打者だが、イチロー選手に年間四十本のホームランを期待する人はいないだろうし、カブレラ選手に内野安打を期待する人もいないだろう。 詩の個性も、他者の詩と並べて見ることでより明らかになるのではないだろうか。

⑤アンソロジー詩集は書き手にとっても強い刺激剤になる。いつもとは違った人々とページを並べて、他者の作品に刺激を受けながら自分の作品を客観的に見つめる時、何かの飛躍のきっかけがその人の内部に生まれることがあるのだ。それが今後の執筆意欲につながったりする。
 孤独な創作に苦心している詩人が、やはり独自に苦心して書いていて場を異にしている他の詩人の詩作品を同じ本に読み時、今まで感じなかった親しみがわき、本全体が創作者にも強いエネルギーを送って、書くという行為への励ましになることがあるのだ。

 アンソロジー詩集の利点をいくつか挙げた。私自身の体験に基づいているから、少なくともウソはない。
 「自分はそうは思わない」という方もおられよう。それは大いに尊重する。
 だが、本によって中味の出来不出来はあるが、詩人が自分の殻に閉じこもっていないでたまには外に出てアンソロジーに参加してみるのもいいのではないだろうか。参加費用が出せる範囲で、であるが……。
 
  今年のアンソロジー詩集から

『日本現代詩選 第三五集』(日本詩人クラブ/待望社)
 五一〇名の作品。二年に一回のアンソロジーで、今回は日本詩人クラブ創立六十周年記念号でもある。巻末には中村不二夫氏による「日本詩人クラブ沿革―激動の十年を回顧する―」が掲載され、編集部による二年間の年譜と会員著書年譜が付いている。
 さまざまに生活や人生や芸術を思う詩作品が並んでおり、貴重だ。
 中井ひさ子氏による「あとがき」によると、過去の『現代詩選』を「遠くの地の図書館で読まれた方々から、ゆったりと読みたいから送ってくださいとのご依頼も受けます」とのこと。
 吉田博子氏の詩「聖火をかざして」は、〈「久しぶりにたずねた娘のアパート」の様子から始まる。植物が〈鬱蒼としている〉。〈あひるのガー子ちゃんの〉〈死んだ後のケージ〉や〈なまずのお墓〉〈赤ちゃんスッポンのお墓〉や〈足に障害をもっていた捨てネコを/拾って飼っていたのが/とうとう死んだそのお墓〉など、作者の娘とその息子の〈たっくん〉が愛しかわいがっていた生きものたちの墓が映し出される。そして、〈たっくん〉とお母さんはそれらの生きものの〈お葬式を〉したり、〈喪にふくし〉たりしていることが判明する。その様子が優しいタッチでリアルに描かれている。雨が降ってきても、その静かな雨も生きものの命を〈抱きしめてくれるかのよう〉と記す。娘と孫を見つめる作者は〈一日 一日/進もう わたしは〉と素朴にうたう。柔らかくて温かい命の声が聴こえてくる、いい詩である。
 吉田義昭氏の詩「海の手紙―長崎半島から―」は、〈夏の終わりの風景〉を郷里の長崎の〈海に向かって細く突き出た半島〉に息子と共に見つめながら過去の人たちと土でつながっていく味わい深い散文詩である。墓に佇みながら、作者直接の祖先から、ひとつひとつ前の世代へと長崎半島の人々全体の思いに想像はひろがっていく。そこに、これからの世代である息子の存在が放つ言葉〈「まあるい海だね」〉が大きな展望をもたらして、海辺の抒情は地球の実感へと深まっていくのだ。詩情豊かな作品である。

『資料・現代の詩2010』(日本現代詩人会/松澤印刷)
 九三八名の作品。定期刊行物ではなく、会六〇周年記念事業の特別企画である。
 前号「コールサック」の現代詩時評で紹介した「日本現代詩人会六〇年史」(鎗田清太郎氏・丸地守氏)が巻頭に掲載され、戦後詩人たちの鋭い社会アピール行動も歴史的に刻印されている。そのほか、何名かの記念エッセイやシンポジウム記録、年表や資料などが付いている。
 詩作品は一〇〇〇名近い参加であるから、三段組みで各人二〇行程度という体裁であるが、それにもかかわらず、詩の充実度は今年のすぐれた諸アンソロジーの中でも光っている言えよう。この会につどう詩人には現代社会に生きていることの批評眼や認識論が特に強く感じられて、この分厚い本を単なる記念刊行物ではない鋭いものにしている。
 一九六六年生まれの新井高子氏の詩「シンブンカミサマ」は、しゃべりまくるユーモラスなぶっちゃけ言葉が強烈なリズムで戦争勢力と報道機関を風刺している。〈メラメラと燃え入る文字はシンブンガミ、/シンブンカミサマが、ほら、立ち上がる//イイ加減ニシロ!/文字喰ッテ オイラハ神様ヤッテンジャ/ドースリャ噛ミ砕ケルッツーノヨ?/奥歯ガ2本 欠ケチマッタヨ、/派兵ジャナクテ派遣ダカラ/自エー隊ハ、多コクセキ軍デスゾ、ッテナ/ネン金ノサルモレラガ 政治シ菌ナンダカラ、/大量破壊ヘ―器サガシツツ〉。新聞の神様という設定で、欺瞞的な言語操作の現状を皮肉たっぷりに描いている。力作だ。
 一九一四年生まれの杉山平一氏の詩「わからない」は、日常生活の苛立ちの連鎖が身近な弱い者へと向かって行くことへのアイロニーと、一番弱い者が一番優しい強さをもっているという逆転の小気味よさが、わかりやすい言葉で飄々とユーモラスに語られている。〈お父さんは/お母さんに怒鳴りました/こんなことわからんのか//お母さんは兄さんを叱りました/どうしてわからないの//お兄さんは妹につっかかりました/お前はバカだな//妹は犬の頭をなでて/よしよしといいました//犬の名はジョンといいます〉。これが全文である。この終わり方の何とも言えない温かみに救われる。
 
『日韓環境詩選集 地球は美しい』
 (佐川亜紀氏・権宅明氏・編訳/土曜美術社出版販売)

 三七〇名の作品。前半が韓国詩人たちの作品の日本語訳、後半が日本の詩人たち(在日コリアンを含む)の作品となっている。これは二〇〇七年に韓国詩人協会編で刊行された韓国詩人による韓国語の生態詩アンソロジー詩集をもとに、日本詩人の環境詩を共同の形で並べて日本語で組み直したアンソロジーである。
 韓国現代詩のひとつの様相が伺えて新鮮である。韓国での名称「生態詩」にあらわれているように、生きものの連鎖、食や住環境を含めた命の姿を見つめたものが多い。祈りのトーンも節々で感じられる。また、世界各国に取材した作品もずいぶんあり、かつての軍事独裁国から急速に民主化していった韓国の人たちの新たな国際化も見えて興味深い。
 日本からの作品には、地球環境をさまざまに書いた作品群に加えて、日本政府による韓国植民地化を含めた歴史を見つめる視点や、在日コリアンの苦難なども見られる。地球環境に対する意識の点で日本の現代詩人はなかなか意欲的と言えるのではないか。
 一九五五年生まれの韓国の詩人・朴相泉氏の詩「見慣れぬ生命に出会いながら」は散文詩で、日本で一年暮らした経験をつづっている。木々も鳥も野菜も、韓国と似ているようで違うという描写はひとつひとつ実にリアルでユーモアも感じる。慣れ親しんだ韓国の風物への郷愁のようなものも漂わせて違いがひと通り綴られた後、ラストで作者はこう記す。〈今日私は異国の地で見慣れぬ生命に出会いながら 彼らの生の中に隠れている遥かな その時間とその場所を思います。〉自分がなじんでいる韓国とは違う日本の風物を育んだ時空に敬意と興味をもってくれている。ここで日本の読者はうれしくなり、この詩人と韓国の風土に強い関心をもつだろう。このアンソロジーにふさわしい作品と言えよう。
 一九六八年生まれの在日三世の詩人・丁章氏の詩「まだひとつになれないでいる」は、コリアンが体験してきた時代を振り返る。〈前世紀の早朝に/新たに武装した隣国がやってきて/幼きハラボジのふるさとは/力ずくで奪われた〉。日本帝国のことである。そして、祖父は海を渡り日本で必死で生き抜いた。〈家族を築き/人生を積み上げ〉た。しかし、戦後、今度はソ連とアメリカという〈後ろ盾も新たに武装した同胞たち/真っ二つにひき裂き占有した〉〈国境を隔てて帰れないふるさとを/前世紀の夕暮れに/ハラボジは遠くに眺めながら/ひとつの尊い命を終えた〉。何とも無念の一世たちである。しかし、いま三世、四世の世の中になっても〈新世紀の朝になお/前世紀の苦しみを生きぬいている〉状況がつらい。〈今世紀の夕暮れまでに/はたしてハラボジのふるさとに/殺し合わない人間として/在日サラムは立てるだろうか/新たなひとつのふるさとに/ひとつのこの地球の上で〉。〈サラム〉とは韓国語で「人間」という意味の言葉であり、作者の願いがこめられている。

『現代生活語ロマン詩選2010』(全国生活語詩の会/竹林館)
 一四一名の作品。関東地方の言葉を「標準語」とされることに強い抵抗感をもつ関西の詩人たちのイニシアチブと、北海道から沖縄まで各地の言葉で「生活語詩」の志を同じくする意識的な詩人たちのよびかけで取り組まれてきた詩運動の最新版アンソロジーである。
 章だてを見て、思わず微笑んでしまう。「北海道・東北」「関東・中部」「関西」「中国・四国」「九州・沖縄」。まさに、関西天国である。横浜出身の私などは横浜を東京といっしょにされることにさえ強い抵抗があるが、何とこの本では関東の枠がさらに名古屋や北陸の中部と同じ枠に入れられているのである。あぜんとするばかりであるが、憎めない。私は関西で十三年間暮らしたから、日頃、対東京に燃える関西同盟の心意気もわかるのだ。「北海道と東北をいっしょにするな」という声も聞こえてきそうだが、まあいいではないか。関西だけ独立して五十八人(占有率約四〇パーセント)、こういう本があってもいいではないか。関西の人たちよ、住んでいた私は知っている。本当は大阪と京都も全く違う風土であることを。それをあえて「関西」として「標準語」と張り合おうとするそのエネルギーに乾杯だ。
 沖縄の山入端利子氏の詩「ゆるんねん いくさば(夜のない戦場)」は、上段に沖縄言葉、下段に標準語の両表記で沖縄戦での生々しい戦争体験を伝える作品となっている。沖縄言葉の響きを大切に感じとりながら、さすがに本場の沖縄言葉は標準語とはまったく違うものもあって、読んでも内容を理解できない。親切な作者が下段に書いてくれた標準語版と照らし合わせながら、この貴重で悲しい内容を胸に刻んだ。これだけ違う言葉であるということに、琉球人の誇りを感じると同時に、そのような独自文化をもつ沖縄を日本の政治の犠牲にし続けて、いまも米軍基地の被害を押しつけていることの非道さをも痛感した。
 
『北海道詩集2010年版』(北海道詩人協会/アイワード)
 一三二名の作品。北海道の詩人たちは道内各地で市民や文学館やマスコミも巻き込んで、多彩で地道な詩文学活動を展開している。北海道詩人協会賞事業も長く持続し、このアンソロジー詩集も毎年刊行されている。巻末には「道内詩誌録」などもある。
 札幌在住の日下新介氏の詩「遠い日の目覚め」は、終戦直後、青年だった作者の「民主主義」体験がリアルである。映画の場面で、〈記者が政府批判の記事を書いて投獄された〉が、有能な弁護士の諧謔の証言に作者は衝撃を受けた。いわく、〈弁護士は法廷で証言した/「被告の有罪は当然だ」/―わたしはあっけにとられた/弁護士はすかさず言った/「なぜなら 専制政府だから」/陪審員たちは いっせいに/「無罪!」と叫んだ〉。こんなに痛快な民主主義が本当に実現していればどんなによかっただろう。アメリカも日本も世界もそうはならなかったからこそ、この戦後の青年の新鮮な感動がアイロニカルに痛切に伝わる。最後に作者は二〇一〇年夏の現在に帰って、こう記す。〈世界の闇は深く/ぼくの出発は/まだ一歩を踏み出したばかりである〉。
 
『宮城の現代詩2010』(宮城県詩人会/あきは書館)
 五九名の作品。
 色川幸子氏の詩「マジックショー」は、軽快なリズムでマジシャンの動作とマジックが語られる。〈ダイヤがクイーンに/クイーンがハ―トに/ハ―トが撃たれ カードが躍り/そして そして白い鳩〉。それが、第五連で状況をひろげた比喩として飛躍して、認識を現実世界での積極性へと深めていく。〈もしも わたしがマジシャンなら/あなたに投げた言葉を消す/世界中のミサイルを消す/降りかかる火の粉も不安も全部消す〉。風刺とはひと味違った手法だが、現実を前へと越えて行く点はまさに言葉のマジックである。ふんわりと夢語りをしているようでいて、強い希求の力がこもっている。
 高見恒憲氏の詩「哭くな アリラン 挺身隊」は、日本帝国主義に騙された韓国の若い人々の人生をリアルに追う長編叙事詩である。素朴な韓国娘を植民地の下でいかに騙して日本に連れてきて働かせたか、ひとりひとりの「創氏改名」や細倉鉱山の現場まで生々しく刻印している。ドキュメント・タッチだが、言葉に強いものがこめられており、リズムもあるので、叙事詩でありながら抒情詩のダイナミズムも感じられる。

『三重県詩人集VOL.18』(三重県詩人クラブ)
 三二名の作品。
 代表の北川朱実氏の「巻頭のことば」にゴッホの言葉が引用されていて考えさせる。いわく、「人間は、その魂のなかに大きないろりを持っているのだが、誰も暖まりにやってこない」。そして北川氏はこう述べる。「眼の玉をはずして、澄んだ空で洗って、しゅうしゅうと音をたてるような詩に出会いたい。」なかなかすごい詩観である。
 伊藤眞司氏の詩「ミミズ」は、ミミズの生態におのれの心のうごめきをも見つめることで、現代の舗装された街の地中に満ちる〈ミミズの哀しみ〉にも象徴的なものを読み手が感じとれるものになっている。そして、後半には〈爆弾・硝煙の暴風雨が吹き荒れる/イラクやアフガニスタンの土の中には/ミミズは棲むことができない〉と、〈不発弾〉や〈劣化ウラン弾の放射能〉の世界の土を想起させる。終連はミミズそのものの様子が再び作者や人間の心と行動の何かをも象徴しているようで奥行きがある。〈頭かしっぽかわからないが/しきりとうごかす/日本のミミズたちよ/今日もよろしくな〉。

『関西詩人協会自選詩集第六集』(関西詩人協会/詩画工房)
 一四一名の作品。
 三年に一度のアンソロジー。全国的にも著名な会員も多く、それでいて気軽な交流の場でもある関西詩人協会の根幹的事業のひとつになっている。会員総数は約三二〇名であるが、詩人のほかに詩愛好家や研究者、翻訳家などにも会の門戸を開いている。「自分なんかはまだこのアンソロジーに参加するのは恐れ多い」と遠慮される初心者の方々もいて「そんなことは決してないですよ」と呼びかけるのもひと苦労である。というのも、私自身が河井洋氏、北村真氏と共にこの本の編集を担当したのである。
 この十一月に開かれた総会の出版記念会では、出田恭子氏、北村真氏、北山りら氏、紀ノ国屋千氏、下村和子氏、白川淑氏、畑中暁来雄氏が朗読した。
 青木はるみ氏の詩「ラサ・サヤン」は、ミュールを履いて〈軽い音を立てて上がって行く〉〈若い女の子たち〉の夏に向かう情景を見つめながら、作者固有の人生の思いや他者への連帯や女性であることの実感、などが言葉に色濃くにじんだ、さわやかで哀しくいとおしい作品である。〈(隙があるって いいことよねえ)〉という作者の地声がとてもいい。〈音立てて血がめぐっている〉生きた人間の若いまぶしさを見守りながら、〈生きていく日々に/ほんの小さなことすら思いのままに運ばないことを/悲鳴のように知らされたとしても/私の内部から/ラサ・ヤサンという言葉が沸き起こる〉。インド民謡の〈親愛の気持ち〉を表す言葉だという。ラストは夢幻的で色鮮やかな詩表現が、血の通う生命の切実な希望へといざなってくれる。
 
『ひびきあう山河―反戦反核平和詩歌句文集第二二集』
 (反戦反核平和を願う文学の会/セイエイ印刷)
 総勢四七二名、詩六七名の作品。これは関西発信の平和総合文学アンソロジーで、詩分野では故・犬塚昭夫氏と、現在、会世話人代表である原圭治氏などが音頭をとって、二年もしくは三年ごとに地道に継続してきた貴重な事業である。
 本タイトルの趣旨で、川柳、俳句、短歌、漢詩、散文、といっしょに詩が並んでいる。
 ゆきなかすみお氏の詩「ハト」は、生きたハトをつかまえて殺害した現代の学校のグランドの場面から始まる。〈ヤレッ! 命令したのはコーチ。/切ったのは生徒たち。〉これは新聞か何かの記事らしく、それを読んだ作者の関心は次の三行に集約される。〈命令されて、嫌々やったのか、/面白がってやったのか、/記事には書いていなかった。〉そこから連想は戦争時代に飛躍する。敵兵の捕虜を柱にくくりつけて〈突いて、斬って投げこむ穴が/掘ってあった〉という。そして、先ほどの学校の場面と同じ問いが向けられる。〈ヤレッ! 命令されて嫌々やったのか、/面白がってやったのか……〉〈戦争だった、からか……〉。全体主義的な状況での人間の矛盾が抉りだされているようだ。個人が主体的な判断で抵抗できない空気というのは恐ろしいし、またそのような判断が内面にもしっかりあるのかという民衆自身の心構えも問われているようだ。一行だけ独立した形で置いてある次の詩句が痛切だ。〈両手の中でどきどきしていたハトのぬくみ。〉

『朝鮮学校無償化除外反対アンソロジー』(河津聖恵氏・編)
 詩人・歌人七九名の作品とメッセージ文。
 日本の高校授業料無償化制度の発足にともない、きわめて政治的な「配慮」で除外された在日の朝鮮学校の人たちの心に寄り添い、除外をやめるように働きかける運動とリンクした重要なとりくみであり、前号「コールサック」の現代詩時評でもご紹介した。
 この本は熱く静かな連帯を生み出し、行動はいまも続けられている。心ある世論に押されていったんは除外をやめる発言をした日本政府文部科学筋であったが、最近、韓国の島への北朝鮮の攻撃事件が起きて、即座にとりさげられてしまった。まさに、政治優先の発想である。前回時評で私が述べた危惧がいよいよ現実化してしまったと言えよう。  
 在日コリアンのこどもたちの当然の人権と生活権への対応を北朝鮮政府の政治に左右させるというのは、二十一世紀の国際的人権基準からしてとうてい受け入れられないことである。北朝鮮政府の問題とリンクさせる感覚自体が時代遅れと言えよう。
 ここまで読んで「朝鮮人なんだから当たり前だろ」ともし口走りそうになった方がいたら、とても悲しく残念なことだ。何度も言うが、在日コリアンという存在は単なる外国人ではないのだ。外国人一般の日本での人権問題もいろいろと改善していかなくてはいけないが、在日コリアンの場合は日本の植民地支配と侵略戦争の過程で連れて来られたか、来ざるをえなかった人々とその子孫である。そこに特別の配慮がない限り、長く続く差別と嫌がらせの被害は絶えないだろう。さらには朝鮮戦争で米軍に協力してぼろもうけしたことが日本の高度経済成長のきっかけになったことも歴史の事実である。
 その悲惨な米ソ冷戦による祖国分断がいまも解決していないのだから、子孫たちがともかく日本社会で日本人と仲良く生きていかなければならないことを私たち現代の日本人こそが理解しなくてはいけないのである。「北朝鮮に味方するのか」などというのはねじ曲がった解釈だ。北朝鮮国家があのような前近代的な抑圧体制だからこそ、なおさら在日コリアンの苦悩の深さが身にしみるではないか。国家が悪だとその民族ルーツをもつ個人も悪だと言うのなら、大日本帝国時代に生まれた日本人は全員いまも悪人ということになってしまうだろう。韓国にひとり旅をすると、韓国の民衆は決してそんな人の見方はしないと実感する。侵略や植民地支配を正当化する日本人には厳しいが、そうでない友好的日本人にはとても親切だ。
 今回は同アンソロジーからの作品引用はしないが、ぜひ多くの日本人に読んでもらいたい詩集だ。

『詩と思想詩人集2010』
 (詩と思想編集委員会/土曜美術社出版販売)

 二七八名の作品。毎年刊行されるアンソロジーで、伝統的に作者の年齢の高い順に掲載されているようだ。
 二八九ページまでが詩である中の二七五ページに掲載された長谷川忍氏の詩「汲む」は、三連までの各連でそれぞれ見知らぬ他者の「曲」「笑顔」「詩」との印象深い出合いが描かれる。いずれも心に強く響く共感の場面である。そして、後半の三連でそこから総合・普遍化された哲理が生きたメッセージとなって語られるのだ。〈たとえば、こんなふうに/あなたの発した/唄声や/表情や/言葉を/きちんと汲んでくれている人が/必ずいる//あなたの周りに/あなたの気づかないところに/いや/あなたの気づかないところこそね//今日もこの場所で/生きてゆく。/ひとつの含羞を/胸の内にそっと隠しながら。〉そんなにうまくいかないよと感じるよりは、そんなにうまくいかないからこそ、意欲的に前を向いて信じあうことが大切なのだろう。だから、暗い時代にこの詩の視点はとても優しく心に響いてくる。この作者には、すてきなものを発掘する編集者やプロデューサーの目も感じた。

『鎮魂詩四〇四人集』(鈴木比佐雄氏・菊田守氏・長津功三良氏・ 山本十四尾氏・編)
 すでにこのアンソロジー本に収録されている解説を書いていて、前号「コールサック」には書評特集も組み、今号でも広告を載せているから、ここでは省く。貴重な歴史的レクイエム詩集である。

〈二〇一一年 コールサック社のアンソロジー詩集〉
 『命が危ない 二〇〇人詩集』予告

 そして二〇一一年。これまでのさまざまなアンソロジーに大いに学びながら、新たなものに取り組みたい。 
 編者の年齢層を思いきり下げて、日本の詩の世界の高齢化現象を超えて、若い詩人の作品ももっと前面に出したいと考えている。もちろん、大ベテランの高齢層も若い層と共にすすむ形で重視する。編者四名(佐相憲一・中村純氏・宇宿一成氏・亜久津歩氏)の生年はそれぞれ、一九六八年、一九七〇年、一九六一年、一九八一年、である。
 いまを生きる人たちの生きた現実の中の言葉を大切にして、こどもたちのSOS、愛と孤独、就職難と労働地獄の世の中の働く者の命、医療現場、高齢者の命、など、切実な命の詩が集まるといい。

  おわりに

 ざっと見てきたが、これらのアンソロジーに収められた詩と詩人の数は膨大であり、そのひとつひとつ、ひとりひとりが貴重である。
 アンソロジー詩集という形は、他者をよく知り、おのれをよく知り、並び具合が醸し出すひと味違ったものを発見し、二十一世紀初頭の日本の書き手、それぞれの場の書き手を概観し、後世にも残す、大変有意義なものだと言えよう。

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詩「新宿御苑」コールサック68号より

新宿御苑 ―都市公園で憩う国際労働者―
               
佐相 憲一
 

十一月の海ぞら
赤い葉を踏みしめると
コーンフレークを嚙む音だ
サク サク サク
空にミルクが流れて
銀色の高層ビルの彼方に
夢のカルシウムが透けて見える

大阪のこどもたちは元気だろうか
〈センセー、顔も話もおもろいな〉
〈なんで結婚せえへんの〉
〈国語、成績上がったで!〉
思い出が
まぶたでサーフィン

芝生広場には
フランス語でたわむれる父と娘
住んでいるのだろうか、観光だろうか
〈ボアラ(ほうら、どうぞ)〉
差し出すパパの手のひらに
赤い葉っぱ

幼いマドモアゼルは目を丸くして
〈オッ、オッ、……〉

ムッシュ
日本は好きですか
娘さんが大きくなって
パリかどこかの街かどで
何かの連帯デモを歩く時
幼年の遠い国の公園の
赤い葉っぱと大きな手のひら
若かった父の記憶はすぐそばに
そうして革命の国の秋のデモ行進で彼女は
何かを踏みしめることでしょう

芝生で語られる韓国語や中国語
インドかネパールかパキスタンか
目のくりっとした黒い肌のおばちゃんから優しい香り
日本は楽しいですか

入場料は二〇〇円
今日の相場で一 ・八ユーロ、一六元
空は高層ビルの向こうの方で世界とつながっているから
ぼくはふと
ボードレールが読みたくなる

薄暗い夕刻
カフェか居酒屋か
喧騒からひとり離れて
ボードレールがワインを飲んでいる
このうさんくさい男が
後の世の世界中の悩める心を癒やす詩を
いま書いてきたばかりだとは
店内の誰も知らずに

新宿御苑のたそがれは木枯らしの大都会
十九世紀パリの裏通りが描かれたように
二十一世紀東京の国際労働者たちがここにいる
楽しそうな憩いの背後
空いっぱいに聴こえる数知れない
くらしと人生のうめき声

サク サク サク
心臓の音に合わせるように
裏側まで踏みしめて
人類は書き継がれていく

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