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2017年3月

2017年3月29日 (水)

最近発表の詩3篇です

お久しぶりです。このところ、フェイスブックを活用しているので、こちらがご無沙汰となりました。最近発表した3篇の詩をここに載せます。


補償の森

 

夜明けの川にアオサギが立っている。灰青の体が赤紫の光線に照らされる。遠くの山を見ているような、近くの獲物を見ているような、どこも見ていないような、すべてを見透かしているような、聖なる鳥。孤高と名づけたくはない、達観とも呼びたくない、ありのまま。はばたいて、裸の木々に囲まれた常緑樹のてっぺんに、アオサギが舞い降りる。

 

ツバメの群れが駅の上空を旋回する。いや、群れではない、協力関係か。降りてくると一羽一羽、個別の動きだ。人間を好むなんて珍しい。好きというより合理的な共存関係の選択か。ヒトの住まいのつくりが彼らにも便利らしいし、ヒトも燕尾服を着て鳥の真似をする。

 

オナガドリが野原の木から木へ飛び移る。我が家は地球だと彼らが言ってもおかしくはないだろう。灰青の身は着物のように伸びているが、舞台衣装を着飾っているわけではなくそれが裸。よく知られた濁った鳴き声は警戒音であり、パートナーとの愛の声は全く違うらしい。ギュイギュイギーとチュルチュルピーの間には、生きるということの何かがあるだろう。

 

夢は醒めるものではなく深めるもの。そうおしえてくれたのは自然界だった。

 

意識的現実が無理をしていると無意識の深遠な計らいが夢を通じて補償的な象徴の物語を送ってくる。個人的なものと人類的なもの。個別の差異と集合的な内的蓄積。計り知れない広大な森が、ヒトひとりの中にある。

 

木々は連なっているのに一本一本は離れている。その寂しさは同時に愛の源でもあり、自由というものが自然界に備わっているとすれば、時空の根源そのものが脈打つ命の流れを思い出させてくれるからかもしれない。川は山にも海にもつながっているから、そして朝焼けは夕焼けと夕焼けの間にあって星空が準備するものだから、わいてくるものを勇気と名づけてもいいだろう。木は黙っているのではなく、常に呼吸している。その息が風となって森の緑を揺らす。

 

〈ススメ、ススメ、兵隊ススメ〉と学問のススメのように促された時代があった。とにかく進んだ。侵略し、打ちこわし、焼き尽くし、殺しまくり、殺されてなお名誉と祀り上げられ、旗を振り、群れて、そんな時代は短くはなかった。ススメよりはスズメの方がよかったというのは駄洒落ではない。野に鳴くスズメの声にふるさとを思い、歴史を改造することが偽造に過ぎないとうすうす気づいても強制される高揚と陶酔を止めることもできず、ひそかに胸にひろがったもの。時代の要請する旗印をつけた仮面の奥には、ゆったりとした、のんびりとした、わらべうたのような、自然界への郷愁が波打っていたかもしれない。現代の引きこもりの人のように、野山に心閉ざしてこもる欲求が切実だった。それを〈現実逃避〉とか〈虚無主義〉などと決めつけた時代もまた去っていった。最新の心理学に照らすならば、反戦や非戦だけが好戦の対極ではない。厭戦の兆候としての孤愁や懐古、自然回帰などの心象は、時代の意識または無意識が人類の狂気を爆発させていたその時に、小さな個の生の偽らざる悲鳴を通じたもうひとつの無意識あるいは意識の表れだったのだ。それは、国家とか神とか民族とか集団とか、束になって突っ走るものに同化しきれない、心の補償だった。怪我をしたスズメのヒナを見つけて守ってやる心をもった人が、ススメ、ススメの合唱をすることの悲劇。引き裂かれたものを抱えて、せめて自らを正当化するために、優しいはずの自然風景を国家の匂いのするものに捻じ曲げてお墨付きをもらっても、それは芸術とはならなかった。なぜなら芸術は、悲鳴をあげる深層をごまかしては成立しないからだ。惨たらしい時代の裏側で、ひそかにヒトの心にしみこんでいた夢の自然風景。それは、強引な意識または無意識の狂気に対する、心の奥からの抵抗、警告だっただろう。もう兵隊はススメないのだった。

 

白い鷺をコサギ、チュウサギ、ダイサギと名づけたのはよくなかった。昆虫を〈○○もどき〉と呼ぶのと似た、あるいは番号で呼ばれる囚人のようなものだろう。灰青の共通性をもっていながら違う佇まいを醸し出しているゴイサギ、アオサギ。三種類の白い鷺もまた、次の時代には別の呼び名がほしい。いや、ヒトがひとりひとり違う個人として呼ばれるように、鷺もまた、一羽一羽の名前で呼ぶべきか。

 

真冬の早朝、通勤途中の玉川上水で顔をあわせるあのアオサギを何と呼ぼう。見るたびに、希望が抽象概念を超えた本当の希望として押し寄せる。帰りの夜空の下でもまた会うのだから、世界中で古くから伝承されてきた〈吉〉〈幸〉の象徴を信じても責められないだろう。名前はいらないよ、そう言われているような涼しいまなざしに、思わず祈ってしまうのだった。これもまた、ぼくという現代人の心の補償かもしれない。

 

夢を深めるということは、物語を知ることだ。気づかなかったが深く存在するものを多面的につなげることだ。森の中で木洩れ日に立ち止まるとき、それは単なる日光や木々の影や葉の茂みや土や風ではないだろう。動いているそれぞれが、ある時刻にその場所で、奇跡的に組み合わさってできるもの、その運命的な可能性を目撃者の星座とするなら、星座と星座の大銀河は、アスファルトで覆われたぼくたちの世界そのものの補償として、新しい森の出現を促しはしないだろうか。しかしそれは巨大で壮大な物語というよりは、ひとりひとりの疎外された生の全体を過去にさかのぼって発見しつなぐものであるだろう。森は木からできているし、木は枝や葉や花や実からできていて、その根っこがつながっている。

 

港にはばたくカモメのまなざしを見ていた。心の中の赤に対する青の補償。見つめていると、羽を休めるという比喩は呑気なものではなくて、もっと根源的な、生き続けるための行為だった。カモメの鳴き声が痛かった。そうして繰り返される海紀行が川をさかのぼって森へとつながる時、カモメは鷺となった。物語は水鳥の類似性と神秘がつむぐ。歩いていると、川に佇む鷺の気配に気づいてしまうのはなぜだろう。物語の星座と呼ぶ以外にないではないか。空から舞い降りてきたアオサギが常緑樹のてっぺんにとまっている時、見上げるぼくの眼の奥にダブるのは、旋回して船の錨にとまったカモメである。なるほど生命の始まりの海から人類発祥の森まで、つながる銀河を案内するのは進化の道を異にした鳥。異なるからこそ、人生のしがらみや別離の繰り返しに濁っていく頭を離れて見つめられるのだろう。個体は類を繰り返すだけじゃない。そこに独自の物語があるのだから、カモメを見つめた日々と、鷺を見つめた日々は、彼ら一羽一羽の物語と共に、ぼく自身の物語を促しているのだった。そしてヒトが鳥にはなれないように、ぼくもあのゴイサギにはなれないから、その出会いの妙はいっそう豊かな何かを匂わせているようだ。

 

行路を共にする妻が野良猫に語りかけている。人に捨てられたのであってヒトに捨てられたのではない、わたしはここにいるよ、と言うように。

 

きょう、金星が月の近くに見えた。月より大きな金星が月より小さく、ありったけの光を発している。金星が目につくのは土曜日の予感に胸が躍るからだろうか。人間がつくった呼び名や神話には、縁の深さと何かの影がついている。自然界もまた物語に満ちているとしたら、生きることの寂しさにも耐えられる。いにしえの人びとの、それをロマンと呼ぶのはやめよう。もっと切実な何かが、現代のぼくらにもつながっているだろう。妻と共に包まれる宇宙の光と闇。明日のゴミ分別収集でさえ、物語の星座の中にあるだろう。いっしょに捨てに行く物は、新たに踏み出す一歩へのためらいや自信のなさか。金星が、月が、星座が、輝いている。太陽の時間だけが希望の象徴ではないだろう。夜は昼の補償なのだから。そして心の森では、明日も緑が青と赤を包むだろう。

 

ニュースになっていない大切なことが、まだたくさんあるはずだ。鳥はまた、はばたくだろう。


(「コールサック」89号)



冬眠

 

厳しい季節を予感して

いま動く

黄金の夢の中で白銀の現実を生き抜く

 

実ったものは保存して

吸収するのだ

世界を抱きしめるために

 

高ぶるものをしずめて

大地の下でそっと味わう

心の温度を下げるのは

さびしいものがもつ豊かさに

ふれるため

 

いま大きなものが走って行った

地響きを受けとめながら

下の方から森を感じる

争いが起こっては過ぎ去る

自分自身はどこにいるのか

無理やり外へ合わせるならば

歩んできたすべてが消える

その魂が即死したくないのなら

貫くことは

森を根っこで生きること

まるく願うこと

春だけじゃない夏だけじゃない秋だけじゃない

この冬の

いのちをうたうこと

 

ほら 枯葉に埋もれた愛が

ほんとうの時代の養分を地下に潤わせて

 

あなたの今後を祝福している


(「狼」30号)



霊園

 

もみじが降ってくる

死んだ人たちの言葉が

木洩れ日になっている

墓の森

 

この人たちは

もう揺れることもない

 

だが抱えていたものは

こちら側を揺らす

 

頼りないものすべてを

奥から励ますように

 

鳥や虫や獣や魚や花や葉や実に姿を変えて

 

○○家を越えて

猿人の森へ

 

重ねられた分断を越えて

生まれたばかりの個体へ

 

細胞の森を通って

原始から古代、中世、近代、現代

部族、民族、一族、家系、仲間

つながっているものと独自なものが

叫んでいる

 

生きることがたたかいだとしても

薄暗い日常のなかで日々

愛は生まれるのだ

 

うたは続き

落ち葉がこの命にささやいてくる

 

(「いのちの籠」35号)

 

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